〒みなさま
今日はあたまのなかをただ書くだけの日記です。
ついさっき足の爪が割れて、指先から血が出ていることに気がついたのです。
全然痛くなくてかえって驚いてしまいました。
NIKEのエアハラチの黒だったのですがこのシリーズは随分つくりが小さくって普段のサイズ+1センチを買うのが妥当だったのだと後から知りました。
普通のサイズで買ってしまったハラチは歩いてるうちに足の指先が、丸くなってしまうほど小さくて、しゃんが中敷を全部剝がしてしまってようやくなんとか足に納まりました。
それでも少し近所に行く位は問題がないし、なんだかろくに履きもしないでまだきれいな靴を捨ててしまうのがイヤで、新しいサイズの買いなおしたものが届いたのだけど、近くに行く時はやっぱりこの靴を履こうかなと思ってしまいました。
たぶんサイズが小さい靴を履いて足をいためたり、中敷を剝がしてしまったものを履くなんてばかげているといわれても仕方ないのですけれど、私はなんだか、この様変わりした靴を好きになりました。
私は物に感情移入してしまうところがあります。物を落としたとき、なぜか「ごめんね」と言ってしまうような時もあります。私はとてもめんどくさい性格をしていて、なんでもすきにはなれないけれど、すきになったものにはちゃんと誓える人間でいたいなと思います。
小さい頃、私はいくつもある何かから好きなものを好きなだけ選ぶことを迫られることが多かったように思います。
それで慎重になったことは幾つかあります。
たとえば何かを美味しいといえば、同じものや似ているものがたくさん次の日テーブルにあり、それらを食べきれなくても叱られる事はありませんでした。そしてまた、他に好きになったものを聞かれてそれらが繰り返したくさんテーブルに並びます。食事に限らず、文房具だったり、他のものでもそういう事がありました。
言葉で表現できない罪悪感がありました。
だから、だんだんとすごく好きなものについて考えるようになりました。
多くのものを日がわりで愛せたら楽しそうだなと思うことはあります。飽きも慣れもなくてすべてが新鮮だと思いますし、そうできるひとは軽やかなところがあります。
快楽主義はきらびやかでそれもまたすてきだけど、私には向かなかったようです。
その影響はやっぱり子供の頃にあるのかもしれません。
お友達がよくお店で言われていた「おかしは一つまでね」という言葉を私は言われたことがないのです。それは理由がありまして、姉も私も外でお菓子を欲しがったことがほとんどないのです。
なので母がそれを心配して、「これ美味しそうじゃないかしら?」と聞いてくれるようになったのですが、私は小さい頃 たぶん未就学児くらいまででしょうか
その頃まですごく神経が弱く、外にでると何も口にできないような部分がありました。当然お店のものに食欲がわきませんでした。気持ちがいっぱいいっぱいになって吐いたり熱をだすことも、この頃からはじまりました。
確か幼稚園くらいまでは食が細く、母がいつも心配して色々なものを作ってくれていたのを覚えています。
私は食べなくても元気だったので、なぜ母がこんなに色んなものを食べさせようとするのか不思議でした。それがとても母を心配させていたことを知るのはもっとずっと後でした。愚かでした。
話は戻りますが、たくさん家に届くお菓子で姉や私が選ばなかったお菓子がありますよね。そのお菓子なんですが、母があまり夕食もとらずにそれを食べることに胃の容量を使うのです。母は食べ物を捨てることを選ぶ人ではないですし、私達がたべなかったものをどなたかにあげるのが失礼だと考えていたのでしょう。母が食事もそこそこにそれらを少しずついただいてる様子を見て、上手くいえないのですが たくさんのものを持つとき、よく考えなければ無駄が生じ、そしてそのしわ寄せが自分を愛するものに及ぶことを、何とはなしに感じました。
難しく書きましたが、子供のころ思ったのはお母さんにいやなことをさせて自分は楽しんでるように感じた、くらいのものだったのですけれど。ただとても記憶に残っています。そしてその記憶を頼りに、小学生になっても中学生になっても多分今になっても考え続けています。
長くなりましたけれど、物はただの物ではない時があります。私にとって。
それらは感情を介して選んできたものはもちろん、偶然にストーリーが生まれたものもそうです。
そもそもこの世界に嫌いなものはありません。私はばかなので、嫌ってもすぐに忘れてしまうのです。愚かなので苦手なものはたくさんありますけれど、嫌いなものはありません。世界にあるのは究極のところ好きなものと自分だけです。
だから、目の前ほどに近い場所に存在するこの靴を好きになる理由は十分にあるのです。
私はこの世界でいちばんおもしろくておかしいのは生活だと思います。
大量生産の靴でも、私と物語があるのはこれだけだから、足がだめにならないように気をつけながら一緒にいようと思います。
書き終えて気がついたのは、子供の頃の私はたぶんお菓子が入り込む余地がないほど生活に夢中だったのだと思います。今日はつまらないことでおもしろいほどいろいろなことを思い出します。
まとまらない話を消化して、楽しくあそんできます。
またお便りいたします。
円野まど