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こちら孤島のまどよりお便りします

円野まどの恥の多い日々の記録

いつかを知らない頃

 

〒みなさま

 

こんにちは円野まどです。

少し体調を崩しているとき、昔の黒歴史を振り返っていると恥ずかしさのあまりいつの間にか元気になることもあるので、おすすめです・・・。

今日は少し前に母からこっそり聞いたことで姉が父方の祖母にかわいがられなかったことを寂しく思っている、という話がありました。

結論からいえばそれは誤解なのだけど、それを話すことが正しいとも思えなかったり、昔のことを懐かしく感じたりしました。

今日はそのことを書こうと思います。

 

 

 

 

*ミイおばあちゃん

 

幼稚園に入る前は朝ごはんを食べると家の奥にある和室に飛び込んでいった。

ミイおばあちゃんの部屋だ。

そこはお線香の香りがして、床の間に掛け軸があって、足の長い家具は一つも無い。

普段の生活スペースとは違う雰囲気が特別に感じた。

「ミイおばあちゃん」とは私達が小さい頃同居していた父方の祖母のこと。

私達は母方の祖母も名前を最初につけて~おばあちゃんと呼んでいた。

父と母は年の差がある結婚をしていたので、ミイおばあちゃんはその頃すでに高齢だったらしい。子供の私は当然そんなこともお構いなしに、おばあちゃんと遊んだ。

 ミイおばあちゃんは、子供に「遊んであげようか」という人ではない。

父にもその傾向があるのだけど、祖母は自分から子供においでおいでをするような人ではなかった。子供だからと触りたがったり甘やかすような性格ではなかったらしい。

「らしい」と書いているのは私は今以上に空気が読めず、したいことをしたいようにしていたので分からなかった。私は訪れたい時におばあちゃんの部屋に飛び込み、そして出て行って欲しいと言われることはなかった。無言で夕飯まで過ごすことも多くあった。

私が小学生の時におばあちゃんは入院をして、それから数年後亡くなってしまった。

病院に入ってからは少し記憶が曖昧になったり行動がちぐはぐすることが増えた。

高齢による認知症なのか、病状によるものなのかは分からない。

私の母や自分の娘である叔母を見ても「まどちゃんかい」と言うようになってしまったのだ。姉はこれに大きく傷ついたと話していたらしい。

父の名前も呼ばず、祖母が最後まではっきり呼んだのは私の名だった。

それなのに私は、あまりに無慈悲で愛のない態度をとっていた。

もっと話しかけてあげればよいのに「いつか死ぬ」ということが分からず、私は病院で漫画を読んだりおばあちゃんのベッドでキーホルダー型のテトリスをしながら寝るような馬鹿だった。起きたら日が暮れてはじめていて、私はそのままおばあちゃんの夕ご飯まで半分以上もらって食べたこともあった。お母さんが「おばあちゃんのご飯はお代わりないのよ」と情けなさに眉を下げながら私を叱った。

何故甘えてはいけないのかわからないほどに、愚かだった。

できない事が増えただけでおばあちゃんはおばあちゃんだから大丈夫。

そんなことを何の根拠も無く思っていた。邪悪なほど。

会える場所が違うだけで、私のおばあちゃんはずっと私のおばあちゃんなのだと決め込んでいた。

お父さんと私の仲が難しい時期だったので、二人で車に乗って病院に行くことも重く感じていた。私の気まずさなんてどうでもいいのに。私は全然優しくない。

外出中に病院いくから帰ってきなさいと連絡がきて、えーと言ったことがある。

もうすこし、後でもいいでしょう という意味を含んでだらしない声をだした。

何故そんな言い方をしたのかも覚えてる。

お姉ちゃんの前で、私にも予定がある と格好つけたかったのだ。

その夜、おばあちゃんは亡くなった。

たとえ本人に聞こえてなくても、最後の日に言った「えー」ということばを後悔してる。

でも、私が思ったことやしたことは変わらない。

たいしたことじゃないと多分人は言うと思う。けど忘れられない。

年を重ねるごとに、おばあちゃんが私にしてくれたことやかけてくれた言葉の意味がわかってきたから。

あの時、こう思ってこうしてくれて、あの時、こう思ってこう言ってくれたのだって。

寂しくさせたことも気づかなかった。

おばあちゃんにしてあげられることが今ならたくさんあるのに。

私はもう何もすることが出来ない。

おばあちゃんはわけが分からなくなりはじめても、お昼にでたお菓子をすべてわたしのために机にしまうようになって、それはカビてしまっても私に渡すまで頑なにしまいこんだ。

私はただ私を好きでいてくれるんだなと思った。

それをありがとうとにこにこ受け取ったけど、なぜおばあちゃんがそうしてくれるのか考えたこともなかった。

死ぬということが分からなくて、いつかいつかと過ごしてきたあの頃を忘れることが出来ない。すごく不思議だ。ただバカだったんだけど。

馬鹿だから、いつまでもずっと何も失わないと思っていた。

それから、私は今でも身近な人にはあまりに強い言葉を投げかけないようにしている。

人は二度と帰ってこないこともある。今話せることに絶対がない。

その気持ちがいつも自分にブレーキをかける。

いい子ぶってるとか、偽善者といわれてもいい。

何で怒らないの、馬鹿にしてるの?キャラ作ってるの?と言われてもいい。

自分のためだと言われたらそう。私は自分の為にそれをしない。

私はもう二度とあの後悔をしたくない。

それがおばあちゃんが私に最後に残してくれた、大切な人と縁を切らさないための何かなのだと時々思う。

勝手に思うだけで、私がしたことは何も変わらないのだとどこかで気づきながら、それでも意味のあることに出来ればいいなと思っている。

私は今更、おばあちゃんに会いたい。

 

*姉の知らない話

すこし余談。

実は私の名前を最後まで呼んだ理由に、心当たりがある。

私は母にも話したことがない秘密があるのだ。

母は「女の子は清く美しく」ということを大切にしているので、これを話すことは出来ない。そして姉については今更この話をした所で、野暮というか意味のないことだと思うので言えずにいる。

私はしっかり自分で歩けるようになってから、ミイおばあちゃんが出かける所についていくようになった。

おばあちゃんは区が管理する近所の会館で行われる老人会に通っていたのだ。

実はそこで、私はあることをしていた。

小さな子が遊びにくることは無いようで、いつも熱烈な歓迎をもって迎えられた。

皆さん可愛がってくれて、私はそのうちにある喜びに目覚めた。

そこではやることなすことが「ウケる」のである・・・!!

私は今も人見知りのままだけど、例外として高齢の方とはツルツルお話ができるのは多分この時の体験のおかげだ。本当にとにかくウケてもらえた。

どのくらい私に対しての笑いのハードルが低いかと言うと、私がちょっと眉間に皺を寄せて

 

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「おにぎりのまねします!」

とわけのわからないことを言うと会場は沸きに沸いた。

そしてわたしはしゃがんで高速で移動するという、誰でもできる芸を披露し、皆さんの肋骨を折るのではないかと不安になるほどの笑いを頂いた。

すごく楽しかった・・・。はい・・・すごく楽しかったです・・・。

あまりにもうける上、お菓子ももらえるので私はこの老人会の日にそなえ「暴れん坊将軍」などの再放送をチェックしたりした。

師匠から芸を盗むかのようにおばあちゃんが見ている番組を一緒に見た。

私は若い演歌歌手のごとく、会でチヤホヤされ完全にお調子にのっていた

おそらく今もその時の熱狂を心のどこかに持っていて、随所で笑いをあびたくなっている節はある。

 しゃがんだあとTシャツを引っ張ってむりやり足までしまいこんで畳を滑るように移動する。眉を思い切り顰めれば時代劇の真似になると思っていた。とにかく何でもウケるので、視聴率100%みたいな気持ちでいた。(つらい)

おばあちゃんが私の名前を覚えていた時、わたしのそのばかな様子を思い出したのではないかなと思った。

あの時のおばあちゃんの顔が思い出せない。

他の人が畳に手をついて笑っていたのは覚えているのに。

おばあちゃんは笑っていたかな。笑っていたのだといいな。

あのときおばあちゃんにしたことも、お母さんに投げた言葉も、たくさんの大人のひとに優しくされたままのいろんなことを今になってからたくさん気づきます。

 

私も誰かを笑わせられたらいいな。 

誰かを失って悲しいということを知ったぶん、誰かを笑わせたり大切にできるといいな

ゼロにならなくてもできるだけの後悔を減らして生きたい。

そんなことを思いながら、またお便りいたします。

 

円野まど